タルタリア文明について⑦ 浪花百景編 後編

さて前回に続いて浪花百景を考察していこうと思うんですけど今回は国旗に絞って

書いていこうかなと思います。

まずこの写真を見てほしいんですけど

アメリカのところおかしくないですか

いつからアメリ星条旗🇺🇸やめたんだとw

完全にロシア🇷🇺国旗なんですね

 

それからこの作品の解説があったので貼りますね

明治元年(1868)に外国人居留地が川口の地に設けられた。

川口波止場の東10万余坪の一角に大阪で初めて西洋風の建物が建った。

大阪府誌』には戸数31、人口330余人で、イギリス人57人、アメリカ人60人、ドイツ人1人、

フランス人9人、中国人200人、スイス人3人、ベルギー人2人、スペイン人1人がいた

と記している。河口より上ったところにある不便さから、神戸の台頭を許し、川口居留地は廃れた。

ここ見てもロシア人いないんですね

アメリカ人てことになってるんですよね

これが前回のタルタリア文明について⑤でも触れた絵なんですけど

やっぱりロシア国旗なんですよね

これもロシアなのかなあ

白と青しかないので空の色と同化してるのかもしれないですけど

完全にロシア隠されてるような感じがするね

 

 

あともう一つ意図的に隠されてるような国が一つあって

 

これなんですよね

オーストリア帝国🇦🇹なんですよね

その名は、江戸初期の長堀川開削に功績のあった岡田(美濃屋)心斎が、私費で架けた橋であることに由来する。  江戸の末頃には吊り橋となっていたのを、明治6年(1873)に工事費1万9千円という高価なドイツ製の吊鉄橋に変え、当時の人を驚かせたという。ちなみに、現在この橋は鶴見区鶴見緑地内に保存されている。  ただし、この鉄橋は幅が狭いなどの不便があったため、明治42年(1907)にまず小西荘次郎という者が手掛け、その後を大阪府が引き継ぐ形で4代目の心斎橋が誕生した。夕暮れには欄干にてられたガス燈が点る、市内で最も美しい橋とされていた。  長堀川が昭和39年(1964)に埋め立てられると、もとの心斎橋の辺りは横断歩道が交差するようになり、今では「心斎橋跡」と刻まれたフラワーポットが置かれている。

この橋をドイツ製ということになってるんですけど旗みればわかるんですけど

オーストリア帝国なんですよね。

右側に小さくあるのが多分このオーストリアハンガリー帝国時代の旗なんですね。

この浮世絵かなり正確に書いてるんじゃないかなっていうのがわかりますね。

 

それからこれなんですけど

これもオーストリアの旗なんですよね

解説なんですけど

 

置府当初は津村別院にあった大阪府庁は、明治7年(1874)に西区江之子島に移転した。この建物は、はじめての本格的な府庁で、イギリス人ウォートルスの設計で、2階建て外装は石灰モルタル塗り、内部は総桧材、正面玄関に4本の大円柱、屋上に大時計を置いた。設置された場所から「江之子島政府」ともよばれた。  大正15年(1926)に現在の大手町に移転した。

 

この建物、以前に触れた中之島図書館にすごく似てるなって思いました。

ただ前に川がないのでこの建物じゃないかもですけど

こんな感じの建物がもっとあったのかもって思いました

 

あとそれから

この旗があるんですけど

どこか最初話からなったんですけど調べたらどうもインドみたいなんです

この時代のインドは英国領なんでこういう旗みたいですね。

こっちはイギリスの船なんですけど🇬🇧ユニオンジャックがあるんで

やっぱりイギリスも来てたみたいなんで英国領のインドも来ててもおかしくないのかなと

 

 

あと、自分は全然知らなかったんですけど、どうも義和団の乱ていう事件があって

中国(当時清)の義和団を八カ国連合軍組んで潰すっていう

事件があったみたいなんですけどどうも最初の写真はそれっぽいんですよね。

これ見てて思ったんですけど

やっぱり日本てこの当時普通に強いんじゃないかと思うんです。

こんな今でいうG8みたいなものに呼ばれてる訳で相当列強として

他の外国からも強いと当時から思われていたんじゃないかなと、

そんな近代化が遅れて遅れてみたいなことはなかったんじゃないかなと思います。

 

はい今回はこの辺で締めたいと思います。

日本がちょんまげの侍してて明治維新によって慌てて近代化したんです。

っていう今までの概念、教科書の考え方が少し変わってきたかなと思います。

 

次回はですね。

オーストリア=ハンガリー帝国について

調べようと思います。鶴見緑地に橋がまだあるらしいので

それを見つつもう少し明治の海外との交流について

考察していきたいと思います。